昨年の東京都知事選挙で前宮城県知事の浅野史郎氏に出馬を要請し応援した「東京を。プロデュース2007」というグループが選挙後の9月、「明日のために…2007年東京都知事選に向けた活動の報告と総括」というパンフレットを作り、各方面に配布しました。この「総括パンフ」の基調は“石原慎太郎氏に勝つためには民主党が乗れる候補者で統一する必要があった。だから吉田万三氏は降りるべきだった。浅野氏こそふさわしい人だった”というものです。 浅野氏が石原都政継承を表明したことに触れぬ「総括」 選挙戦の実際の経過と結果はどうだったでしょうか。 石原都政を支えてきた「オール与党」の一員・民主党の支援を受けた浅野氏は、早くも07年3月6日の記者会見(出馬表明)で「(石原都政は)基本的にはだいたい継承すべきもの」と述べ、実際に論戦が進むにつれて、福祉でもオリンピックでも石原氏と変わらない立場を露呈し、政治的に石原氏を助けました。 これにたいして日本共産党と革新都政をつくる会は、都政転換の共同目標と都政改革プランを掲げ、街頭演説や法定ビラなどを通じて訴え、都民の支持と共感を広げて健闘し、石原氏が都民減税や中学三年までの医療費無料化を公約せざるをえないところまで追い詰めました。 ところが総括パンフは、「赤旗の『浅野県政批判』について」という章に全体の四割近くのページを割き、「しんぶん赤旗」07年3月2日付の一つの記事に的を絞って「検証」し、浅野氏を弁護しています。 その赤旗記事とは、日本共産党の志位和夫委員長が浅野宮城県政3期12年(1993〜2005年)の中身について「巨大開発を推進し、福祉切り捨てではそれまで以上に冷酷さが際立った」と、実例を挙げて批判した07年3月1日の記者会見の報道です。 これにたいして総括パンフは、「どれも全くのウソではありません」と認めたうえで、「ただ恣意性や一面性、また背景の軽視などが見て取れます」としています。 中身を見てみましょう。 巨大開発を継続し、新たな浪費もつくった浅野県政 浅野県政は巨大開発を推進した結果、県の借金を約7千億円から約1兆4千億円に倍増させました。これについて総括パンフは「巨大開発のほとんどが浅野県政以前に計画・着工されたもの」だとして、浅野氏を免罪しようとします。 たとえば石巻港港湾整備事業は1981年に策定され91年に着工されたものだから、93年に知事になった浅野氏に責任を問うのは恣意的だと言います。 しかし、当の浅野氏は、就任後初の県議会(93年12月)で「前知事が進めた諸施策は評価すべき点が多い」として、前県政以来の大型開発(港湾・空港整備など)を盛り込んだ「総合計画」の「積極的推進」を宣言しました。 しかも浅野県政は、その後半期に「仙台空港アクセス鉄道」をみずから事業化(2000年4月)・着工(02年12月)し、巨大開発路線を加速させました。仙台空港とJR名取駅間(7・1キロ)を結ぶ、関連事業含め1千2百億円の事業です。空港の利用客は横ばいなのに、過大な需要予測をもとに推進された、浪費の典型です。 「国策だから」と開き直り 借金倍増の“実績”を指摘された浅野氏は、「要因は、当時、国策だった景気対策の中で、それぞれの自治体が事業をやれということになった。景気浮揚に自治体も協力せよと。われわれも資金をなかなか準備できなかったけど、事業をやった。客観的に見れば、財政的な身の丈をこえた形でやった」と言い訳し、「攻撃されたり、批判されたりするが、私の失政なのか」と開き直りました(都知事選出馬表明の記者会見)。 これにたいしては総括パンフも「しかし国の経済対策にのって、いかに有利な財源措置があったにしても、県財政から見て過大な投資を行ってきた責任は言い逃れできるものではありません」と書かざるをえませんでした。 ですから、本来ならこの点だけでも浅野氏が“ふさわしい人物”とは、とても言えないはずです。 ところが、総括パンフは続けて「ただ、浅野県政独自の失政というより、補助金や交付税を使っての中央統制の側面も見なければ全体評価を誤るのではないでしょうか?」と、どこまでも浅野県政を弁護します。 国の大型開発政策が背景にあるのは事実です。しかし、地方のことは国から独立して住民の意思で決め、行なうというのが、憲法で定められた地方自治の本旨であり、地方自治体の存在意義です。 無駄な公共事業は止めるのが地方自治の流れ 実際、1990年代の末頃から日本の各地で、国が決めて動き出していた大型公共事業に、住民運動がストップをかけ、国も断念するという事例が相次ぐようになりました。地方自治体の中にも、いかに国からの財源措置で統制・誘導されようとも、無駄な大型公共事業は中止する、というところが現れました。 たとえば、長野県の前・田中県政(2001〜06年)は、誕生後間もない01年2月に「脱ダム宣言」を発し、その後の検討委員会の議論を経て、浅川ダム、下諏訪ダム、大仏ダム、蓼科ダムの建設計画を中止しました。浅川ダムは、当時すでに本体着工済み・建設中でした。 これにたいして自民党などのダム推進勢力は「ダム中止の判断による補助金返還などで、県は財政再建団体に転落する」などと脅して抵抗しましたが、田中県政は「脱ダム宣言」の立場をつらぬき、県民参加の新たな治水・利水対策を前進させました。 「脱ダム宣言」は、次のように述べています。「多目的ダム建設事業は、その主体が地元自治体であろうとも、…ダム建設費用全体の約80%が国庫負担。されど、国からの手厚い金銭的補助が保障されているからとの安易な理由でダム建設を選択すべきではない」。 浅野氏の宮城県政についても、こうした見地からの総括が求められているのではないでしょうか。 どの数字を見ても「福祉日本一」にはほど遠く 巨大開発推進の一方で、浅野県政が福祉を切り捨ててきたことは冷厳な事実です。総括パンフも、浅野県政終了時の一人あたりの民生費が全国42位、社会福祉費が43位、児童福祉費が41位であったという日本共産党の指摘を認め、「ずっと低位にあったというわけです」と書いています。 同時に総括パンフは、これは「県・市町村財政合計」から引用した数字だから一面的で、「県財政単独での対歳出決算総額の割合」も併記するべきだと主張します。これだと、2004年度決算で民生費28位、社会福祉費23位、児童福祉費25位です。 「合計」でも「単独」でも全国順位は28位から41位の間であり、浅野氏が掲げた「福祉日本一の宮城県をつくる」という看板とは遠くかけ離れていました。 そのため、総括パンフは「金銭をバロメーターにした指標とは違った質的な観点からの検証も必要です」として、浅野氏の「福祉の哲学」を強調しています。 しかし、実際に浅野県政がおこなったことは、介護保険導入を理由に介護手当を廃止したこと、障害者やひとり親家庭の入院給食費まで有料にしたこと、県立の保育専門学院、母子家庭や勤労者の保養施設など県立の福祉施設を次々と廃止・閉鎖したことなどです。浅野氏自身「(削減リストに)いろいろ『福祉の浅野』が泣くようなものも入っている」(2001年10月29日の記者会見)と言わざるを得ませんでした。 低所得・生活苦への配慮なき国保証取り上げ 浅野県政が前県政と比べて福祉切り捨てで際立ったのは、前県政ではゼロだった国民健康保険証取り上げが、浅野県政の05年には2千330世帯になったことです。 このことについて総括パンフは、「国保証取り上げ(資格証明書交付)の制度は1987年からあるが、強化されたのは2000年から」だからだ、と浅野県政を弁護します。またしても「国策のせい」です。 宮城県議会では02年2月の定例会で国保証取り上げ問題が議論されました。日本共産党の県議が一般質問で、遠田郡のある職人さんが不況で仕事が全くなくなって国保税が滞り、奥さんがパートで家計を支えて滞納分の一部支払いを窓口に持って行ったところ資格証交付となった事例を紹介しました。高血圧で20年間通院・服薬を欠かせないできた人ですが、薬が切れて身動きできなくなりました。 日本共産党の県議は、国保法施行令第一条の三、四に依拠して、低所得で生活保護基準以下の暮らしをしている場合や、倒産やリストラなどで著しく生活苦に追いやられた場合などを、国保証を取り上げることのできない「特別の事情」と認める県としての基準を定め、市町村に示すよう浅野知事(当時)に求めました。しかし浅野知事は「資格証の交付は保険料の収納確保の手段」だからと、これを拒否しました。浅野県政の「哲学」を物語る冷たい答弁ではないでしょうか。
以上のように、志位委員長の指摘は決して恣意的・一面的で背景を軽視したものなどではありませんでした。浅野氏の政治姿勢の核心をなす、自治体のあり方の根幹にかかわる問題で「石原氏と浅野氏は同じ」だったのです。 こうした動かしがたい事実から目をそらし、浅野氏の偽りの“政治家像”をねつ造するやり方や総括パンフの他の章も合わせると全体の5割近いページが日本共産党と「しんぶん赤旗」への的外れの「批判」で占められていることは、まともな市民団体のやることではありません。 (くりはら・じゅんすけ)