~連載(第10回)~ 検証 革新都政その後 鈴木都政16年⑧ 臨海副都心開発の破たん
2019年1月16日


 「時代の潮流である国際化・情報化の拠点」「職と住の均衡のとれた理想的な未来型都市」として計画された臨海副都心開発。今年で最初の東京テレポート構想発表(1985年)から34年。1988年の開発始動から31年が経ちました。
 その臨海副都心は、いま、最初に進出した日航ホテル、デックス東京ビーチ(複合商業施設)、そしてフジテレビの台場区域を除いて、当初の計画にそった都市づくりは頓挫し、未だに買い手のつかない未利用地が数多く残されています。
 また、開発のきっかけとなったテレポート構想の拠点とされたテレコムセンターは貸しビルに変貌。テレポートのためのパラボラアンテナは見あたりません。
 さらに、東京都が企業進出を誘導するためにモデルビルとして建設した第3セクター方式(以下3セク)のフロンティアビル、民活手法で建設したタイム24や東京ファッションタウンなどはほとんど借り手が見つかりませんでした。
 そのため、東京都は青少年センターや水産試験場などの都の施設を移転・入居させるなどの手厚い支援をおこないましたが、いずれも経営が行きづまり破産。民事再生法の適用をうける事態に追い込まれました。
 鳴り物入りで導入した“土地を売らずに長期に貸し付けて事業費をまかなう”という「新土地利用方式」もバブル景気による土地高騰で計算が狂い、バブルを前提とした“毎年6%+地価上昇分(上限)2%づつ賃料を引きあげる”という無謀な設定があだとなって、進出を表明していた企業が次々と撤退。早々に売却方式に切り換えたものの買い手は現れず、事実上のたたき売りとなりました。

いまも残る1900億円の借金

 鈴木都知事は当初、事業費は“開発者負担で賄う”“税金は使わない”と豪語していたが、これも破たんすることとなりました。
 本来、開発者負担で建設する計画であったアクセス道路の税金投入や臨海3セクビルの救済のための都施設の移転、防災名目での有明の丘の税金による買い取りなどが相次いで行われ、資金ショートに直面した臨海副都心開発事業会計の救済のため、莫大な土地譲渡益と未処分の広大な埋立地(2兆円近い資産)を保有していた2つの埋立会計との統合を行うことで破たんを取り繕うとしたのです。
 臨海開発救済のためにつぎ込まれた税金や資産は4兆円近くにも達するものとなりました。なりふり構わぬ救済にもかかわらず事態は改善されることはなく、借金(起債)は今日なお1900億円も残され、負の遺産として都政に重くのしかかっているのです。

3つの傷跡

 こうした臨海副都心開発の破たんについて、テレポート構想による臨海部開発のスタートの時点からプランナーとしてかかわっていた平本一雄氏は著書「臨海副都心物語」のなかで、①金丸民活懇の残した傷跡、②全面整備方式と世界都市博覧会の開催、③市民不参加の開発プラン―という「3つの傷跡」があったことを明らかにしています。
 そこでその「3つの傷跡」の切り口に「利権」をくわえて、臨海副都心開発の破たんについて考えてみたいと思います。

金丸副総理の介入

 まず、一番目の「金丸民活懇の残した傷跡」についてです。
 東京都がテレポート構想の検討をはじめだした当時、国政では中曽根政権が発足。第2次臨調とともに民活路線がもちこまれ、東京23区での都市開発規制の緩和をすすめるアーバンルネッサンス計画(1983年)などの民活方式による都市開発が政策的にうちだされていました。
 また、過熱化する日米貿易摩擦の対策としてのプラザ合意に基づく内需拡大・円高路線がとられ、国内生産拠点の海外移転で放出される大量の労働者の受け皿としての建設産業の仕事づくりと日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)が求める大規模開発プロジェクトに応える公共事業拡大(当初430兆円)などの景気対策がとられました。
 東京での臨海部開発はこれらの「内需拡大や貿易摩擦など当面の課題」(鈴木都知事)に応えるものとして期待されたのです。
 中曽根政権の民活担当大臣であった金丸信副総理が、突如、臨海部を視察(1985年9月)。臨海部開発に介入してきました。
 この金丸副総理の介入が70億円とも言われた蓄財・利権を意図したものであったことは、マスコミでもとりあげられてきましたが、より本質的には平本氏が指摘している通り、「民活路線」にもとづく内需拡大・産業構造転換の先導役を東京都に果たさせる意図であったことも明白です。

規模拡大とスケジュール圧縮が招いた破たん

 金丸副総理が立ちあげ東京都も参加した「民間活力活用推進懇談会」は発表した「基本方針」のなかで東京でのオフィス需要が増大するとしたうえで、「東京臨海部は、こうした需要の増大に対応しうる可能性のある地域」と期待を表明。これをうけた鈴木都政は、計画を青海地区を中心としたテレポート構想から、台場地区、有明地区まで開発対象地域をひろげ、開発面積442haの7番目の副都心への格上げをおこないました。これによって臨海副都心開発は、地方自治体の身の丈を超えた10兆円もの巨大事業にふくれあがることになったのです。
 金丸副総理は臨海部の視察にあたって、鈴木都知事に対して「一日も早く、5年で解決する方向で取り組みたい」「我々の目の黒いうちにつくって欲しい。そのための法律もつくる」と迫り、これをうけた東京都は最低でも30年はかかるとされる都市づくりを3分の1の10年計画に短縮。「最低二ヵ年ほど」が必要とされる計画期間も「全行程で正味六か月」へと縮め、この「圧縮したスケジュールが致命傷」(臨海副都心物語)になったのです。
 このような財界・JAPICの意向をふまえた国策としての金丸副総理の介入、民活路線のおしつけによって、臨海副都心開発は後戻りのできない破たんの道をつきすすむことになったのです。(つづく)

卯月はじめ

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