~連載(第9回)~ 検証 革新都政その後 鈴木都政16年⑦ 臨海副都心のはじまり
2018年10月15日
臨海副都心の名の由来となった「テレポート」は一九八〇年代半ば、都市の「情報化」と「国際化」の象徴として脚光を集め、大阪市や横浜市なども同じ構想を打ちあげていた。しかし、実際に登場したときには「斬新なアイデア」が「時代遅れの新システム」となっていた。
川本裕司
はじまりはテレポート構想
莫大な資金を役人。鳴り物入りで登場し瞬く間に破たんのみちに転落した臨海副都心開発。そのはじまりは、アメリカ・ニューヨーク州のステタン島で建設されたテレポートに刺激された東京都、大阪巾、横浜市のテレポート建設一番乗り争いでした。
テレポートは「通信衛星を介して電波をパラボラアンテナを備えた地球局で送受信し、世界各国と大量の情報をやり取りする拠点」とされ、その通信機能や企業を有したインテリジェンスビルと柱とした基盤を整備するものです。
この構想に手をあげた先の3自治体は、いずれも臨海部に一定規模の遊休地を有していました。
先行していたのは大阪市でしたが、鈴木知事は、1984年にニューヨークで開催された第1回世界テレポート会議に急遽、幹部職員を派遣。第2回会議を東京で開催することに成功。一気にテレポート建設の先頭を走ることになったのです。
その構想について、東京都テレポート構想検討委員会は「国際化、情報化、経済のソフト化の流れは東京に新たな都市活動の器の整備と都市構造の再編を要請している」(1986年8月・中間まとめ)として、一部、海浜公園などとして利用されていた台場、青海、有明の東京湾埋立地(その後、臨海副都心)を拠点に選定し98haの都有地に都市づくりをすすめることを打ちだしました。
しかし、国際通信の方法は、東京都がテレポート構想をかためていたこの時期には、衛星通信を使ったテレポート方式から海底ケーブルを使った光ファイバーケーブル方式に転換が図られていて、横浜市が早々に事業から撤退するなどテレポート方式はまさに時代遅れのものとなっていたのです。
実際に、その後、青海地区に建設された東京テレポートセンターは、通信事業としては活用されず、オフィスの貸しビルとなっており、衛星通信のためのパラボラアンテナは見当たりません。
金丸信副総理の登場
そしてこのタイミングで登場したのが、当時の中曽根政権の金丸信副総理・民活担当大臣でした。金丸副総理は東京都が仕立てた船で、臨海部を視察。その5日後には私的諮問機関である「民間活力活用推進懇談会」を設置し、一地方白治体の開発行政に露骨に干渉してきたのです。
鈴木知事は、この懇談会に参加するとともに、内閣官房・建設省・国土省など6省と共同で「東京臨海部開発推進協議会」を立ちあげ、中曽根民活を推進する国と二人三脚で臨海開発にのめり込んでいくことになるのです。
膨れあがる開発規模
こうした金丸副総理の動きの背景には、いわゆる中曽根・金丸利権といわれる利権あさり、JAPICなど財界・ゼネコンの欲望がありましたが、よりおおきな要因として、当時、日米貿易摩擦が激化しており、その調整としての日米プラザ合意。それにもとづく貿易摩擦の対応策としての内需拡大・公共事業拡大路線があったことを指摘しなければなりません。
このため臨海開発の規模は当初のテレポート構想段階の40haから、「中間まとめ」の98ha、「東京港将来像」の226・3haと拡張。臨海開発のスタートとなる1989年の「臨海副都心開発事業化計画」では、「テレポート構想」は影をひそめ、開発目標が①多心型都市構造への転換を推進する新たな副都心の形成②国際化、情報化の進展に対応した副都心の形成③多様な機能を備えた理想的な都市の形成と定められ、開発フレームも面積448ha、就業人目11万人
居性人目6万人へと膨れあがることになったのです。
卯月はじめ