~連載(第5回)~ 検証 革新都政その後 鈴木都政16年③ 財界と鈴木都政
2018年5月15日
「行政プロの知事」(東京都知事・日比野登編)と称された鈴木俊一元都知事。
その出発は、戦前の内務省地方局行政課で、戦後は地方自治省次長、自治次官などを歴任、その間に東京都制の立案にもかかわった人物です。
その後、東(あずま)都政時代には東京オリンピック開催にむけての手腕を期待され副知事に就任、1967年の都知事選挙では都知事候補に選定されたものの立候補にいたらず、大阪万国博覧会の事務総長に就任するなど、国を挙げてのビッグイベントにかかわってきました。
さらに1971年の都知事選挙でも自民党の都知事候補として擁立されるなど、1979年の都知事就任にいたる過程は、国、自民党と不即不離の関係であったことがわかります。
と同時に、こうした「東京都制立案」「東京オリンピック」「大阪万国博覧会」など、日本の政治、経済活動の根幹にかかわる重要な仕事にかかわることとなった背景には、日本の政治・経済を支配する財界の意向ぬきには考えられません。
財界の財界による 財界のための都政
当時、日本の財界は、経済団体連合会、日本経営者団体連盟(現在、両団体が統合し日本経済団体連合会)、経済同友会、日本商工会議所の4団体で構成されていました。かれらは、国、地方での革新勢力の躍進に危機感をつのらせ反転攻勢にでようとしていましたが、その最大のターゲットが革新都政にほかなりませんでした。
こうしたもとで革新都政が誕生した1967年の都知事選挙では、この財界4団体が各種業界代表や大企業などをあつめ民社党(当時)の候補への支援を指示するという異例の対応をおこない、その後も革新都政転覆の策動はつづけられ、1979年の鈴木都政誕生にいたったのです。
鈴木都知事は、まさに、“財界の切り込み隊長”として都政に乗りこんできたということができるのではないでしょうか。
その鈴木都知事は、就任早々に、東京都の主要幹部を引きつれて財界総本山の経団連を訪問、財界との蜜月関係をあらためて示すとともに、各種私的懇談会への財界関係者の登用、のちの開発第3セクターへの財界・大企業の門戸開放など、自治体における財界戦略の具体化の先導役としての役割を果たしたのです。
大企業のための開発計画「マイタウン東京構想」をはじめ、その後の4期12年にわたる、臨調・行革のもちこみ、福祉の切りすて、民間活力活用、同時多発的な都市開発、そして利権横行などの都政は、そのことを雄弁にもの語るものとなっています。
JAPICの誕生
鈴木都政を考えるうえで、もうひとつ重要なことは、日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)の創立です。JAPICは、鈴木都知事誕生の数ヶ月後に、当時の鋼材倶楽部理事長の斎藤英四郎新日本製鐵社長と日本土木工業協会会長の前田忠次鹿島建設副社長の呼びかけで、鉄鋼、建設業界などの6団体で設立されたもので、「プロジェクトにかかわる機械、造船、自動車、セメント、電力、不動産、運輸、通信、サービス、金融、保険」などの業界企業で構成され、スローガンとして「空に高く地に深く海に広く」をかかげ、計画には東京湾横断道路、臨海部開発、汐留貨物駅跡地開発、東京外かく環状道路など、のちに実現することとなった大規模プロジェクトが目白押しとなっていました。
このように、都政は鈴木知事のもとで、貿易摩擦を背景とした内需拡大と国の財政破綻対策としての「小さな政府」を推進する財界と、そのもとで東京都をまきこんだ大規模開発プロジェクトをもくろむJAPICとの二人三脚での都政運営に変質させられたのです。
卯月はじめ