~連載(第1回)~ 検証 革新都政その後 革新都政はなぜ倒されたのか
2018年1月15日
 自民党、財界が、単に都レベルではなく、中央も乗りだして、反共野党もまきこみつつ革新都政打倒に執念を燃やしたのは、革新自治体および政策の全国への広がりが、まさに保守支配治の根幹を揺るがしたからであった。
 増補 革新都政史論
 有働正治

 1979年4月。財界・自民党政権による用意周到な作戦のもとで、革新都政の輝かしい12年の歴史が閉じられました。
 その背景には、世界的な自由主義・市場原理主義の台頭、2度にわたる石油ショックによる経済危機など複雑な社会・政治状況、財界・自民党政権による革新自治体つぶし、統一戦線組織である「明るい革新都政をつくる会」の分断、美濃部亮吉都知事の離反などの問題が複雑に交差していました。

反共・市場原理主義の台頭

 革新都政も打撃を受けた1970年代の2度の石油ショックは、ヨーロッパでひろがっていた「福祉国家」に財政的打撃をあたえることとなり、むき出しの資本主義をかかげる自由主義・市場原理主義の台頭を呼びおこすことになりました。
 革新都政が倒された翌月にはイギリスでサッチャー政権が、翌1980年にはアメリカでレーガン政権という反共・超保守、市場原理信奉者の政権が誕生したのは偶然ではありませんでした。
 日本でも、国政での社会党の右転落がはじまり、一時は人口の4割超を占めていた革新自治体も、京都蜷川革新府政が1978年に幕を閉じ、翌79年には大阪黒田革新府政も終焉。革新自治体は“冬の時代”を迎えることとなったのです。

TOKYO作戦

 田中角栄政権のもとで始動された財界・自民党政権が一体となった革新自治体つぶしの作戦は、革新都政を敵視していた自治省が企画・推進したもので、東京、大阪、京都、横浜、沖縄の5革新自治体のイニシャルをとった「TOKYO作戦」として遂行されました。
 作戦の一つは“兵糧攻め”です。そのやり方は、国が革新自治体が住民のための施策を実施するための起債(借金)の発行を不当に制限したり、東京都を富裕団体扱いして当然公布すべき地方交付税を不交付とするなど、石油ショックで逼迫していた革新自治体の財政に狙いをさだめ、住民サービスを後退させることで住民を離反させることを意図したものでした。
 また、マスコミも動員して、「バラマキ福祉」「行き詰まった財政」などといった宣伝を展開。「財政危機」の原因があたかも革新自治体の「放漫な財政運営」にあるかのような攻撃をしかけてきたのです。
 その攻撃は「行革」、反共・反革新の異常なキャンペーンをはったサンケイ新聞に止まらず、朝日新聞までが、“東京都が放漫な財政運営をおこない、人件費や福祉予算を高増させることで都財政を破たんに追いこんだ”などという不当な主張(社説・行き詰まった東京都の財政)を展開するにいたったのです。

革新勢力の分断

 作戦の二つ目は、革新勢力の分断、統一戦線の破壊でした。財界・自民党政権は、当時、革新都政与党であった公明党をとりこみ革新都政陣営のなかからの切りくずしを図るとともに、右傾化をすすめていた社会党に対しても、全国の革新自治体で相乗りをはかることなどで革新陣営からの分断をはかることや、露骨な反共宣伝で日本共産党と革新勢力、有権者との分断を企むなどあらゆる手段を講じての革新都政の打倒に奔走したのです。

美濃部知事の離反

 そしてこうした攻撃につけ込むスキを与えたのが、美濃部都知事の離反でした。はじまりは第3期目の選挙の直前におきた部落解放同盟による異常な同和行政の要求へ屈服による不出馬表明であり、1979年選挙では、密かに、自民党と知事候補者の選定の話し合いをおこなったり、都知事選挙にあたっては、「だれが知事になろうと変わらない」などといって、鈴木俊一都政の誕生を容認。革新統一候補であった太田薫候補の支持を拒否し、自らは視察と称して島へ逃避行するという明らかな都民への裏切り行為をおこなったのです。
 以後、鈴木都政から小池都政にいたる今日まで、都民は、住民不在の都政のもとで苦しめられることになったのです。

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