~連載(28)~革新都政12年 革新都政が挑んだもの ―自然の回復―
2017年3月15日
東京の都市改造において今日なによりも急務とされることは、破壊された自然を回復し、(略)太陽と豊かな緑に囲まれた住みよい都市、そして、災害に強い都市を創ることでなければならない。東京をいたずらに鉄とコンクリートの都市にしてはならないのである。
都は「自然の回復」を都市改造を進めるにあたっての基本的な課題の一つとして位置づけている。それは、単に現在残されている自然を保護するだけでなく、失われた自然をも回復しようとするものである。(広場と青空の東京構想―試案発表後あゆみ―1973)
短期間に、戦災からの復興と高度成長を遂げた東京は、その一方で、自然破壊がすすみ、都内の緑地は都の面積の3分の1に減少することになりました。
こうしたもとで革新都政は、自然の回復を都政運営の柱の一つに位置づけて、積極的にとり組むこととなったのです。
そして1968年にシビルミニマムの具体化として「東京都中期計画」を策定し、つづいて「自然の破壊自体を停止させ、自然と人間を回復する」ことを目的とした、「広場と青空の東京構想・試案」を発表。自然保護憲章の制定やオープンスペースの拡充、緑化の推進、保護が必要な区域の買収などの緑のシステム計画などを都民に提案しました。1968年の都市計画法改正に対応して「1.生活環境の保護および改善、2.都市公害の防止、3.都市防災の強化、4.都市機能のよみがえり」(証言 美濃部都政 浜本一雄)を柱にした「地域地区改正の基本方針」を策定しています。
自然保護条例制定
東京構想で提起された自然保護憲章は「東京における自然との保護と回復に関する条例」として都民参加で実現。条例では自然の保護と回復に関する責務を明記するとともに、公共施設の緑化、農地の保存、保全地域の指定、土地の買入や開発に対する規制、都民参加などを定めています。
公園の整備
当時、東京における都市公園は「大部分は、皇族や大名の私有地であったもの」(都政白書'69)で、住民一人当たりの公園面積はわずか1.05m2と、世界の大都市とくらべて極めて貧弱な水準に置かれていました。
このため、「これからの街づくりには公園や遊び場を優先して考えるという、行政の姿勢そのものの確立が必要」だとして、都民1人当たりの都市公園の面積を1985年までに都市計画法が求める6m2の水準に引きあげることとし、用地買収予算を拡充しました。
多摩地域では、野川公園、神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などによる「武蔵野の森構想」もとりくまれました。
生まれも育ちも革新都政
葛西沖から羽田沖にいたる海域を都民の手にとりもどすという東京構想の基本的考え方に基づいて、55年度を目途に、公園、体育施設等を整備し、都民のレクリエーションの場として開放しようとするものである。(あゆみ)
急速な湾岸埋立によって失われた水辺環境を取り戻すために、革新都政は、お台場、夢の島、葛西沖などを核とする海上公園構想を発表(1970年)。巨大な人工浅瀬の葛西臨海公園や夢の島公園など、都民がレジャーやスポーツを楽しめる大規模公園を整備しました。海上公園は現在36箇所におよんでいます。
また、自然公園として都民の森(奥多摩)を整備し、今日、おおくの都民に親しまれています。
こうしたとりくみの結果、東京都の公園は、革新都政のもとで2倍化(1967年~1977年)することになったのです。
緑化の推進
東京都は、自然の回復のとりくみには都民の参加と協力が不可欠だとして、市民の緑化運動を重視し、植木業者への苗木の委託生産と都民への配付やみどりの監視員制度などを導入して緑化を促進しました。