~連載(23)~ 考証 革新都政12年 革新都政が守ったもの ―都民の安全―
2016年9月15日


 震災や水害などの自然災害はそれが一度限りにおいては、あるいは天災であるともいえよう。しかし、同じ場所でも同じような災害が繰り返される場合は、もはや天災でなく人災である。
 都政白書'69

 革新都政が誕生した1960年代には、国内最大級の石油コンビナート被災や幹線道路の橋梁の落下、液状化による公営アパートの倒壊などがもたらされた都市直下地震・新潟地震(1964年)や、革新都政が誕生した翌年の1968年に発生し、死者52名をだした十勝沖地震(三陸沖北部地震)などがつづき、あわせて、地震学者による関東大震災の「69年周期説」の提起がおこなわれていたことなどから、都民に大地震の恐怖をあらためて呼び起こすものとなりました。
 こうしたもとで、東京都防災会議地震部会が、就任早々の美濃部都知事に提出した東京における地震の被害想定(1967年)は、冬季の夕食時、風速毎秒3・5mの時に、関東大震災規模の地震が発生した場合、「区部で2万戸の建物が倒壊し、わずか5時間後には品川区と同じ面積が火に包まれる」という衝撃的な内容でした。
 また、同時期に、条件によっては、「江東デルタ地帯(江東・墨田区)で生き残れる人はわずかに2人に1人」という東京大学と建設省による共同調査が発表されています。
 まさに、地震への備えは、都政にとって待ったなしの課題であったわけです。
 ところが、それまでの保守都政は、無秩序な都市開発と東京一極集中をすすめることには熱心でも、都民の安全を守ることには関心をはらわず、東京を災害に脆弱な都市につくりあげてきていました。

 先進諸国の都市作りは、人命尊重を主眼にまず防災に力が注がれたといわれる。しかし、わが国では、産業優先の姿勢を取ったため、住民のための防災対策は二次的なものとされ、災害後の復旧作業はあっても、事前に積極的な手を打つという姿勢はなかった。
 都政白書69 '

 そこで革新都政は、防災を都政の重要課題の一つにすえ、都市政策の柱としてとりくむこととしたのです。

震災予防条例

 その第一歩が、震災予防条例の制定(1971年)でした。条例は、前文で、「いうまでもなく、地震は自然現象であるが、地震による災害の多くは人災であるといえる。したがって、人間の英知と技術と努力により、地震による災害を未然に防止し、被害を最小限に食い止めることができるはずである」と高らかに予防原則に立脚した防災のとりくみすすめることを宣言したのです。

震災予防計画

 次いで革新都政は、震災予防計画を策定し、1973年からの5か年計画で、総額1兆3000億円の予算で、震災の調査・研究、都内の危険度の測定、防災都市づくり、建物倒壊や火災の防止、避難所の確保などの施策を緊急に実施していきました。
 また、「防災への道は、基本的には、災害に強い都市作りをすることである」(都政白書69 ')として、都市政策のなかに防災まちづくりを位置づけて、木造住宅密集地域がひろがり、災害にもっとも脆弱とされる江東デルタ地帯に日比谷公園よりもおおきな避難所を6か所つくり、そのまわりを高いビルでかこんで火災延焼を防ぐ大計画=「江東地区再開発基本計画」を策定しました。このうち木密地域の移転住民をうけいれる都営住宅や公社住宅を中心とした白髭東防災拠点(墨田区)が整備されました。

避難場所・避難路

 災害時の避難場所と避難路の確保についても、防災会議の答申にもとづいて、上野公園や皇居前広場など42か所を避難場所に指定し、これらの避難場所を結ぶ避難ルートも整備しました。
 消防体制当時、災害時に一番心配されていたのが火災延焼でした。このため、革新都政は最初の4年間で消防予算を10倍に増やし、その後12年間を通じて消防職員の増員や消防車の増強(154台)など消防体制を抜本的に拡充しました。また、震災用備蓄倉庫や消防水利など都市づくりのなかに位置づけ、消防力の強化にとりくみました。


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