~連載(22)~ 考証 革新都政12年 革新都政が守ったもの―― 東京の産業と中小企業
2016年8月15日
東京の産業は都民の生活から遊離した首都機能や国際的機能に特化するのではなく、都民の生活と結びついた多様な産業を維持することが必要である。
産業母都市東京
岐路にたつ東京の産業
革新都政が誕生した1960年代の東京は、戦後つづいた高度成長が陰りをみせ、産業構造も農林水産業の第1次産業が衰退を重ね、第2次産業も工場再配置や公害、多品種少量生産から大企業による少品種大量生産へのシフト、発展途上国の追い上げがすすむことで、漸減傾向をみせ、その一方でサービス産業中心の第3次産業がシェアを増やすこととなりました。
こうしたもとで中小零細企業をとりまく環境も慢性的に悪化し、企業倒産が景気循環によるものから構造的不況に起因するものへと移行するなど、財政基盤の脆弱な中小零細企業にきびしい時代を迎えることとなりました。
こうした状況を招いた背景には、それまでの保守都政が中小企業対策に真剣にとりくもうとせず、「都の中小企業対策が国の下請的性格が強く,真に都としての体系化がなされていない」(都政白書’69)状態に置かれていたからにほかなりません。
いままで国も都も中小企業対策を口にしながら、親身になってやってきたとは思われない。(略)
革新都政こそが真に中小零細企業を守る都政であることを実証する。
美濃部都知事の公約
都市型工業の振興
東京都は世界の大都市のなかでも、出版・印刷、皮革・同製品、玩具、文具、装飾品等雑貨、金属製品、一般機械、電気機械、精密機械などの製造業が高度に集積した都市として際立っていました。
そしてこれらの製品は、工場数99・5%、従業者数で73・6%、出荷額で60・0%を占める中小零細企業によって生産されており、小零細企業(従業員1人~19名)の出荷額は全体の約2割を占めています。
東京は日本における「産業母都市」としての機能をもち、日本の技術革新をリードする役割を担っている。
産業母都市東京
こうした中小零細製造業を大企業の下請けいじめや工場移転、都市化の進展から守るために、東京都は、個別企業の近代化を促進するための施設・設備近代化資金貸付、企業の診断指導、技術者の指導育成、国内外の販路拡大のための対策などを展開するとともに、中小企業が単独ではおこなえない技術開発・試験研究のための工業技術センターを開設(1970年)しました。
また、江戸時代からつづく江戸切り子や江戸小紋、金魚などの伝統・地場産業や皮革産業についても積極的に位置づけ振興をはかりました。
さらに、製造業にとどまらず大手流通資本や大型スーパーなどの進出で、窮地にたたされている卸問屋や小売店の支援のために、商工指導所を拡充し、巡回相談など経営支援を実施することで、業者の心強い味方となったのです。この商工指導所は全国の自治体が撤退していくなかで東京都は存続、拡充させたのです。
業者の〝命綱〟の拡充
なかでも大きく変化したのが、金融支援です。これは構造的不況のもとで、中小企業の資金繰りが慢性的に悪化し、継続的な金融支援が求められることとなったことが背景にあります。いわゆる「疑似資本」といわれる制度融資の抜本的拡充です。
革新都政は、東前都政では有担保・有保証人で返済期限が2年、貸付金50万円であったものを、無担保無保証人で、限度額100万円、3年以内の月賦返済(日歩2銭3厘)に改善し、しかも、東都政では年3回の受付であったものを1年中いつでも借りられるようにしたのです。
また、小規模企業融資制度も新設、信用保証料の助成制度(肩代わり)もつくりました(1期目)。さらに、個人事業税の減免基準を110万円(1973年現在・東都政30万円)まで拡充しました。
都市農業の育成
都民の食卓を支え、緑をまもる農林業や漁業についても、東京都は積極的に位置づけ、その振興に力をつくしました。例えば、東京の緑を増やす事業と都市農業振興を結合した苗木生産供給事業は今日もつづいています。
さらに農業試験場や畜産試験場、水産試験場、蚕糸指導所などの試験研究機関や多摩地域の経済事務所を拡充し、産業の育成を支援しました。
産業母都市東京
岐路にたつ東京の産業
革新都政が誕生した1960年代の東京は、戦後つづいた高度成長が陰りをみせ、産業構造も農林水産業の第1次産業が衰退を重ね、第2次産業も工場再配置や公害、多品種少量生産から大企業による少品種大量生産へのシフト、発展途上国の追い上げがすすむことで、漸減傾向をみせ、その一方でサービス産業中心の第3次産業がシェアを増やすこととなりました。
こうしたもとで中小零細企業をとりまく環境も慢性的に悪化し、企業倒産が景気循環によるものから構造的不況に起因するものへと移行するなど、財政基盤の脆弱な中小零細企業にきびしい時代を迎えることとなりました。
こうした状況を招いた背景には、それまでの保守都政が中小企業対策に真剣にとりくもうとせず、「都の中小企業対策が国の下請的性格が強く,真に都としての体系化がなされていない」(都政白書’69)状態に置かれていたからにほかなりません。
いままで国も都も中小企業対策を口にしながら、親身になってやってきたとは思われない。(略)
革新都政こそが真に中小零細企業を守る都政であることを実証する。
美濃部都知事の公約
都市型工業の振興
東京都は世界の大都市のなかでも、出版・印刷、皮革・同製品、玩具、文具、装飾品等雑貨、金属製品、一般機械、電気機械、精密機械などの製造業が高度に集積した都市として際立っていました。
そしてこれらの製品は、工場数99・5%、従業者数で73・6%、出荷額で60・0%を占める中小零細企業によって生産されており、小零細企業(従業員1人~19名)の出荷額は全体の約2割を占めています。
東京は日本における「産業母都市」としての機能をもち、日本の技術革新をリードする役割を担っている。
産業母都市東京
こうした中小零細製造業を大企業の下請けいじめや工場移転、都市化の進展から守るために、東京都は、個別企業の近代化を促進するための施設・設備近代化資金貸付、企業の診断指導、技術者の指導育成、国内外の販路拡大のための対策などを展開するとともに、中小企業が単独ではおこなえない技術開発・試験研究のための工業技術センターを開設(1970年)しました。
また、江戸時代からつづく江戸切り子や江戸小紋、金魚などの伝統・地場産業や皮革産業についても積極的に位置づけ振興をはかりました。
さらに、製造業にとどまらず大手流通資本や大型スーパーなどの進出で、窮地にたたされている卸問屋や小売店の支援のために、商工指導所を拡充し、巡回相談など経営支援を実施することで、業者の心強い味方となったのです。この商工指導所は全国の自治体が撤退していくなかで東京都は存続、拡充させたのです。
業者の〝命綱〟の拡充
なかでも大きく変化したのが、金融支援です。これは構造的不況のもとで、中小企業の資金繰りが慢性的に悪化し、継続的な金融支援が求められることとなったことが背景にあります。いわゆる「疑似資本」といわれる制度融資の抜本的拡充です。
革新都政は、東前都政では有担保・有保証人で返済期限が2年、貸付金50万円であったものを、無担保無保証人で、限度額100万円、3年以内の月賦返済(日歩2銭3厘)に改善し、しかも、東都政では年3回の受付であったものを1年中いつでも借りられるようにしたのです。
また、小規模企業融資制度も新設、信用保証料の助成制度(肩代わり)もつくりました(1期目)。さらに、個人事業税の減免基準を110万円(1973年現在・東都政30万円)まで拡充しました。
都市農業の育成
都民の食卓を支え、緑をまもる農林業や漁業についても、東京都は積極的に位置づけ、その振興に力をつくしました。例えば、東京の緑を増やす事業と都市農業振興を結合した苗木生産供給事業は今日もつづいています。
さらに農業試験場や畜産試験場、水産試験場、蚕糸指導所などの試験研究機関や多摩地域の経済事務所を拡充し、産業の育成を支援しました。