~連載(16)~ 考証 革新都政12年 革新都政が実現したもの(3)―― 高齢者に政治の光をとどける(1)
2016年1月15日

 社会的に弱い立場におかれた老人に対する施策の充実度いかんは、政治の根本問題である。その意味からも、老人対策の推進は、これからの都政の重要問題として浮かびあがってくるであろう。

都政白書'69

 日本社会において、老人=高齢者問題が社会的問題として認識されるようになったのは、戦前の封建的な社会制度が崩壊し、高度成長期を迎え、大規模生産が普及、大都市を中心に高齢者の「居場所」であった「家」制度が変容しはじめた1950年代に入ってからのことでした。
 当時、高齢者人口の急増にくわえて、「(1)家族制度の変革による生活意識の変化と親族扶養の減退、(2)技術革新と中心とする産業の合理化、近代化にともなう就業構造の変化による高年労働市場の狭小、(3)産業の拠点化、集中化にともなう都市化の促進による住宅の不足」(東京都政概要 1960年版)が顕在化し、高齢者が、住宅も仕事も年金もないという、“ないないづくし”のもとにおかれることになったのです。
 このため、生活に困窮する高齢者が増え、自殺に追いこまれる人も少なくありませんでした。

世界一の自殺率

 実際に、1960年には全国で、4644人もの高齢者が自殺。日本における高齢者の自殺率は世界一、ヨーロッパの二~三倍にも達するという厳しい状況におかれていたのです。
 また、寝たきり老人も、全国で40万人(1968年全国社会福祉協議会による調査)に達し、有吉佐和子氏の「恍惚の人」が出版、映画化(1973~4年)され、社会に衝撃を与えることとなりました。
 こうしたもとで、老人問題を社会問題としてとらえ、その対策を考える流れが生まれたのです。1953年には、病理学の緒方知三郎東京大学医学部教授の提唱で、老人病研究会および付属研究所が開設されたのを嚆矢に、同年、日本寿命化学協会が発足、56年には日本ジェロントロジー学会(のち、日本老人学会)が設立されるなど、高齢者問題に社会の光があてられることになったのです。

急増する高齢者

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 高齢者問題は、とりわけ東京において深刻でした。
 当時、東京では、高齢者人口が総人口の伸びをはるかに超えて、1957年から革新都政が誕生した1967年までの間だけで168%(29万8032人→49万9220人)、革新都政の最終年となった1979年までには281%(83万6068人)にまで増加していました。
 にもかかわらず、高齢者問題に政治の光があてられることはなく、当時の高齢者対策は、「老人が生活に困窮した場合その最低限度の生活を保障するものであって、この限りにおいては消極的な意味しか持たなかった」(日本人の老後 森幹郎)「当時の老人福祉施策では、生活保護か養老院くらいしか無かった」(証言◆美濃部都政 上坪陽)というもので、到底、憲法が定める生存権を保障するようなものではなかったのです。東京都もこれに追随していました、
 このようなときに、革新都政は産声をあげたのです。

 私は知事になる前から、福祉には関心を抱いていた。が、知事になって初めてその実情を知り、施策の貧弱さに驚かされたのである。なかでも一番遅れていたのが老人福祉であった。

美濃部亮吉都知事


 革新都政の誕生によって、東京における高齢者対策は、それまでの救貧対策としての老人対策から、「すべての老人を対象に、老人を一般社会のなかで、『社会の一員として尊ぶ』ことのできるよう、施設収容中心の老人対策から、在宅老人に対する施策を重視する政治」(都政vol.16 no.4)へと劇的に転換することになったのです。


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