~連載(13)~ 考証 革新都政12年 革新都政が挑んだもの(3)―― 東京に青空を(2)
2015年10月15日
資本主義的生産と企業中心の都市開発によってもたらされた東京の公害。革新都政と都民は、この20世紀の難題に挑むこととなりました。
私は東京を公害防止に関する先進地域にするため全力投球する
美濃部亮吉都知事
公害に対するとりくみは、それまでの自民党保守都政が何もしてこなかったため、手探りの状態からのスタートとなりました。 キーポイントの一つが、革新都政が掲げた「科学的都政」のとりくみです。まずはじめに実現したのが公害研究所です。革新都政誕生の翌年に設立されたこの研究所は、「公害の実態を科学的に研究し、防止技術を研究開発する総合的な調査研究機関」とされ、「公害現象の技術的調査研究」にとどまらず、公害で都民一人一人がどの程度の経済的損失を被っているのかなどの「社会科学的研究」にもとりくむこととなりました。重要な役割を果たしたのが、自動車排気ガス実験室でした。当時、大手自動車メーカーと政府は、自動車排気ガスの51年規制達成は「不可能」と抵抗。しかし、実験室は、その「51年規制」にほぼ到達している車があることを調査によってつかみ、財界や政府の激しい抵抗をうちやぶる論拠を示すこととなったのです。1970年には、それまで各局それぞれでおこなわれてきた公害行政を一元的すすめる組織として公害局が、全国ではじめて設置されました。設置の背景には、光化学スモッグ、新宿牛込柳町における鉛汚染などの公害がこの年に集中して発生、あらたな公害に挑戦する体制が不可欠となったことがあります。“都民の公害憲章”といわれた東京都公害防止条例の制定も画期的な出来事でした。
憲章と呼ばれるにふさわしく、条例は、前文で、「すべての都民は健康で安全かつ快適な生活を営む権利を有する」(第一原則)ことを掲げ、東京都が「あらゆる手段をつくして公害の防止と絶滅を図らなければならない」(第三原則)ことなどを高らかに謳いあげました。また、国や財界が押しつけてきた「経済発展との調和」条項をもたない条例として、全国のモデルともなったのです。
壮大な実験 都民との協働
自治体推薦70名、団体推薦30名合計100名のマンモス委員会として発足した公害監視委員会。地域代表、労働組合、女性団体、公害被害者の団体などで構成、まさに都民・都民団体と東京都の協働のとりくみの場として「民主的都政」の代表的存在となりました。
委員会は、「委員が現場を直接訪ねる」「会報を定期的に発行する」「文章は、事務方(東京都の職員)任せではなく、委員会の責任で答申・提言を作成する」などの原則を貫くことで、行政から独立した第三者機関として大きな役割を果たすことになりました。「51年規制」の実現にあたっては「総量規制」をもりこませ、大気汚染測定運動でも中心的役割を担いました。
計画的行政では、「都民を公害から防衛する計画」や「青空と広場の東京構想」(いずれも1971年)を策定。単年度予算による行政執行の限界をのりこえ、長期的な視点で計画的な行政運営を実現する道をきりひらきました。
これらのとりくみの成果のひとつが、東京電力、東京瓦斯(二社だけで都内の亜硫酸ガスの30%を排出)との間で結ばれた公害防止協定(1968年)です。この協定は、瞬く間に全国にひろがり、2年後には、27都道府県79市で協定が結ばれるにいたりました。
このような努力が実って、東京に青空ときれいな水がとりもどされ、“富士山が見える日が7倍にも増えた”“隅田川の水質が環境基準を達成し、河口でハゼがよみがえった”“17年ぶりに隅田川花火が復活した”など、自然の回復を肌で感じることができるようになったのです。