~連載(12)~ 考証 革新都政12年 革新都政が挑んだもの(2) ――東京に青空を
2015年9月15日

 東京における各種の公害は、年ごとに拡大し、いまや都民の健康と生活は破滅寸前まで追いやられているといっても言い過ぎではない。

 東京を考える―都政白書'69

 戦後、高度成長をつづける日本では、水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症、四日市ぜん息の四大公害病が発生、深刻な公害が全国をおおいました。
 巨大産業が集積する東京においても、東京オリンピックが開催された1960年代を迎えるなかで、工場煤煙や自動車排気ガスに起因する大気汚染、工場排水が流れこむ川や海の汚れ、六価クロムなどの産業廃棄物による土壌汚染などが顕在化していました。


 公害のあいつぐ発生

 快晴なのに薄日が差しているようになり、視界が百メートル先くらいまでしか届かない

 1970年7月18日、突然、日本ではじめて発生した光化学スモッグは、杉並や中野など環七周辺地域の学校102校で5946名の生徒が被害を受け、「気持ちが悪い」「胸が苦しい」などと吐き気やめまいを訴え、フラフラと倒れ込む生徒が続出、救急車で搬送される事態となりました。
 交通量が多く窪地であるために自動車が排出する排気ガスがたまる新宿区牛込柳町交差点周辺では、「身体の節々が痛む」「もの覚えが悪くなった」などの鉛害が、同じ年に発生しました。
 また、1974年には、新しい公害となる酸性雨が首都圏で発生し、「涙が止まらない」「目が腫れ上がった」などの被害が報告され、やがて、多摩地域の森林の立ち枯れ被害もうまれるようになりました。

 泡が一面に浮き、異臭が発生。川遊びができないどころか、魚の棲めない川や海

 水質汚濁では、浄化処理がおこなわれていない工場から排出される汚染水や家庭雑排水などが流れこんだ隅田川などで深刻な汚染が生まれました。

 虫も湧かない、草も生えない「クロム砂漠」

 土壌汚染では、1975年に江戸川区堀切町(当時)で、六価クロムの不当投機が発見され、これをきっかけに、江東区などでも、一企業による六価クロムの大量投機が長年にわたっておこなわれていたことが判明しました。
 これらの公害以外にも、東京においては、日照権問題、ゴミ公害など都民生活を脅かす問題が山積していました。
 これらの公害は、「経済との調和」を優先し、公害排出企業への規制をタナ上げし、公害対策を怠ってきた、国と保守都政のもとで生みだされ拡大したものです。

 画期となった都の公害行政

 公害は社会的殺人であり、その責任は最大の発生源である企業にあり、またそれを許してきた政治と行政にある。
(美濃部亮吉都知事)

 1967年に誕生した革新都政が直面し、最初に手がけた仕事の最大のものが、この公害から都民の健康と生活を守ることでした。
 そして、このとりくみは、国を動かし、全国の自治体の公害行政の先駆となりました。
 その特徴は、(1)原因者責任=企業責任の明確化、(2)国と対峙し国を動かす、(3)科学的アプローチと対策の体系化、(4)都民参加と現場第一―にありました。
この項次号につづく
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