~連載(10)~ 考証 革新都政12年 革新都政がきり拓いたもの(6)―― 軍国主義復活と対峙
2015年7月15日

photo
横田基地の上空
 都は、東京に憲法を実現するという大きな目標の中で、東京から火薬のにおいを追放することを明らかにし、基地返還とその跡地の利用について真剣にとり組んでいます。
 '74都政のあらまし(東京都広報室発行)

 革新都政が誕生した当時(1967年)、日本は、アメリカがすすめる反共・冷戦構造のもとで再軍備化が急ピッチですすめられ、東京におかれた22カ所(2830ヘクタール)もの米軍の基地が、アメリカのベトナム侵略戦争の前線基地としての役割を果たしていました。
 こうしたもとで誕生した革新都政は、選挙にあたっての政策協定で、「都民の平和を守る都政」を柱の一つにかかげ、その実現に全力をつくしました。(抜萃)
・ベトナム侵略戦争に首都の米軍基地をつかうことをやめさせ、立川、横田をはじめすべての米軍基地をなくす
・基地拡張、自衛隊員の募集、徴兵制を準備する適格者名簿作成など、米軍と自衛隊にたいする都、区、市町村のいっさいの協力をやめさせる
・憲法の改悪に反対し、その平和的、民主的条項の完全実施のために努力する

“都政の範囲”を超えて

 核問題はもとより基地撤去、自衛隊反対など平和にかかわる施策の多くは、都政の範囲を超えている。しかし、私は、それにもかかわらず「東京から火薬のにおいを追い払う」ことを都政の基本目標に据えた。
都知事12年 朝日新聞


 革新都政は、基地や安全保障問題は、「国の専管事項」だなどという、狭い法解釈論に立つのではなく、この問題を都政の重要課題、東京の平和と都民の安全を守ることは自治体の責務だと位置づけ、国を動かし、アメリカにも直接ものをいうことで、対米従属化での軍国主義復活に真正面から対峙したのです。
 その革新都政がはじめにとり組んだのが、米軍水戸射爆場の新島への移駐問題でした。これは、水戸射爆訓練場の目と鼻の先には、東海村原子力発電所が開設されており、誤爆があれば首都圏に甚大な被害をもたらすことなることが問題となり、移駐が計画されたものです。
 美濃部都知事は、「戦争につながる外国軍隊の射爆場にすることには絶対反対である」として、島民と連携して移駐を阻止しました。
 美濃部都知事の来島と米軍射爆場接待反対の発言は、新島島民を大いに勇気づけました。(新島ミサイル発射場反対同盟・広野広 「明るい革新都政」から)


軍事基地から都民の広場へ

 また、東京都と都民、平和団体などが連携したとりくみを通じて、革新都政12年の間に、12施設1127ヘクタール(全返還施設14・「東京の米軍基地」から)もの米軍基地を都民の手にとりもどすことができたのです。
 北区の旧陸軍用地に開設された米軍王子キャンプ=野戦病院は、ベトナム戦争の負傷者の治療や本国に送還する戦死者の「死に化粧」をおこなうための施設で、東京都は地元区・住民などとともに返還の先頭に立ちました。返還後は全面積6万4000平メートルの公園のほか、養護学校や障害者施設などが設置されました。
 グラントハイツ・武蔵野住宅は、いずれも米軍の住宅として接収されていたもので、返還後は、光が丘公園や武蔵野中央公園という大規模な公園が開設され、教育施設、光が丘団地としても活用されています。
 稲城町野戦病院や米軍立川基地滑走路拡張も中止においこみました。
 革新都政はまた、「広場と青空の東京構想」(1971年)で、朝鮮戦争の出撃基地、ベトナム戦争の中継基地とされた横田や立川の基地の返還について、「(多摩連関都市)計画の中核をなす」ものと位置づけ、「広範かつ強烈な市民運動をささえとしてその実現をはかる」と宣言しました。そして、立川基地の返還を実現するとともに、返還にはいたらなかったものの横田基地についても、提供都有地の再契約拒否や基地内を走る都水道用地の返還訴訟をおこすなど、基地返還のためにあらゆる手立てをつくしたのです。
 憲法違反の軍隊・自衛隊についても、立川基地への移転に反対するとともに、自衛隊が創立以来、都内でおこなわれていた観閲式=記念式典・パレードについて、「平和な民主都政実現の目標に反する」として拒否。今日まで観閲式の都内開催は実施されていません。
 革新都政の平和へのとりくみは、基地返還とともに、憲法集会の開催、水爆実験の歴史を語る第5福竜丸の保存展示、原爆展の開催、東京空襲史の編纂などはばひろくとりくまれました。それは、まさに日本を「戦争をする国」にしようとする勢力との真正面からのたたかいであったのです。


笑顔つながる東京を 最新ニュース
社会保障
地球環境
ゆたかな教育
防災対策
都政のあり方
革新都政をつくる会とは
関連団体リンク
サイトマップ
旧WEBサイトへ