~連載(7)~ 考証 革新都政12年 革新都政がきり拓いたもの(3)―― 自治体改革
2015年4月15日

 美濃部都政になってから、東京都の予算編成はコペルニクス的転換をしました。予算の仕組みが科学化され、明朗化されました。シビル・ミニマムを組み込んだ計画を骨格に編成し、計画と予算を一致させ、産業基盤優先型から都民生活優先型に180度転換したのです。(スマイルと決断 明るい革新都政をつくる会)

 1888年。明治憲法下で市政町村制がひかれ、1890年には地方公共団体としての府県・郡が制度化されるなど、「近代的」な地方制度が施行されました。しかし、天皇制支配下の制度であり、地方自治というにはほど遠く、都道府県知事は国が任命する官吏とされ、内務大臣には地方に対し、監督上必要な命令を発し、処分をおこなう「一般的監督権」が与えられていました。
 戦後、「地方自治」が明文化された新憲法が公布され、「地方自治法」も制定されました。ところが、新憲法にそって実施された第一回統一地方選挙では、46の知事のうち官吏出身者が32名、知事経験者が28名(重複有り)で占められることとなり、国会では憲法92条について「自治をどうしても認めなければならぬ、また、大いにこれを推進させなければならぬというような意味はない」「現在の地方制度の建前は(略)憲法改正後におきましても、これを維持していった方が適当であるという結論に達している」「今後の地方行政の組織も、根本的には、現状とあまり建前は変えないでやっていく」(大村清一内務大臣)という政府答弁が行われていたのです。
 都政では安井・東保守都政のもとで住民の命と暮らしを守るという役割が放棄され、財界いいなり、自民党政治追随の都政が継続されていました。
 1967年の革新都政の誕生は、このような都民不在の都政に終止符をうち、新憲法が定めた本来の自治を実現する機会をつくることになりました。この自治体改革の炎は、全国の自治体に燎原の火のごとくひろがることとなったのです。

都民が主人公
 革新都政時代、企画調整局長を務めた柴田徳衛氏は「革新都政になって、いちばんかわったことは、都政が都民にとって身近なものになり、都民が都政の主人公になったことです」(21世紀の都市自治への教訓、以下21世紀)と保守都政と革新都政の根本的な違いを紹介しています。

憲法が生きる
 保育所はできる限り多く必要であり、無認可保育所に手を差しのべることは、憲法の精神を生かす道
  美濃部亮吉回想録
 高度成長政策のかげで多くの都民は貧困と格差に苦しめられていました。このような時に、革新都政は憲法が保障する生存権、幸福追求権を保障し、「権利としての社会福祉」を実現するために全力をつくしました。また、都の主催で憲法と地方自治を守る「つどい」も開催されたのです。

都政の科学化、計画化
 美濃部都知事は、「都政に新しい科学と技術に基づく計画を導入」するとして、中期計画やシビル・ミニマムを策定、都民に示して都政をすすめました。また、都庁外部の学者や学識経験者をあつめて「行財政臨時調査会」「東京問題調査会」を設置。科学と計画にもとづく都政運営の道を切りひらいたのです。

都民に顔を向ける
 「それにしても知事と都庁官僚、とくに幹部職員との関係はこの4年間ですっかり変わった」(都政1971 No.4)。
 それまで保守都政に仕えてきた都の職員の意識を変え、「全体の奉仕者」(憲法15条)に生れ返らせることによって、都政が本当の意味での地方自治体へと成長することとなりました。
 「予算がない、法規上の根拠がない、前例がない、のないないづくしで住民要求を切り捨ててきた官僚主義的な姿勢も、克服の方向にむかって進みはじめたのです。」(向谷正夫・都職労委員長当時・21世紀)
 これまで中央政府に向いていた都の職員のカオを、いまでは、100%そうなったとは申せませんが、感じとしては60%ぐらいは都民の台所の方へ首を曲げるようになった。
美濃部知事・1971年

国と対決
 都民の立場にたった都政の推進は、当然のことながら自民党政府と真正面から対立することとなりました。しかし、この時、革新都政は、「諸事前例のないことをやろう、前例を破ろう」「国とけんかしてこい」(柴田・21世紀)といって国の妨害をはねのけ、無認可保育所助成や先駆的な公害対策などを実現したのです。


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