~連載(5)~ 考証 革新都政12年 革新都政がきり拓いたもの(1)―― 地方自治
2015年2月15日

 都政の推進していくのに、最大の協力者は都民でなければならない
 いままでの都政のように、顔を政府の方にばかりに向け、都民の方には向けない都政はやめなければならない

 1967年に東京都知事に就任した美濃部亮吉氏は、のちに、都政のあるべき立場をこう述懐しています。
 そこには戦後、新憲法で地方自治が規定され、地方自治法が定められたにもかかわらず、都政が、戦前からの保守勢力に牛耳られ、都民不在、国言いなりの「官治行政」ともいうべき都政運営が継続されてきたからに他なりません。
 そこでは福祉や医療は救貧対策におし止められ、大企業言いなりの公害行政、対米従属の基地・平和対策などがまかり通り、おおくの都民との矛盾をひろげていました。これに対して、革新都政は、憲法が生活のすみずみに生かされる都政、都民が主人公の都政の旗を高く掲げ、真の地方自治をきり拓くために奮闘したのです。

対話と都民参加
 革新都政は、まず、“都民の方に顔を向けること”から都政をスタートさせました。
 それは、都知事との「都政対話集会」です。第1回は、革新都政が誕生した3ヶ月後の7月に開催されました。その後、第一期の4年間に58回開かれ、美濃部都知事はそのすべてに出席し、都民と懇談、そこで話し合われたことが都政の場で実現に移されました。この対話集会は、任期の12年間に206回開催され、美濃部知事はそのうち102回に出席。参加した都民は延べ3万3800人、発言者は2900人に及んだのです。
 また、美濃部都知事は、おおくの市民団体との懇談や要請にも積極的に対応しました。保育の集まりに挨拶のため出席した都知事が予定を大幅にオーバーして懇談。その結果、実現したのが無認可保育所への支援です。
 このような都知事が直接、都民の声を聞くということはそれ以前の都政にはまったくありませんでしたし、鈴木都政以降も実現していません。知事就任後、財界幹部らとの懇談に終始し、その要求にもとづいて都政運営をおこなった鈴木俊一都知事や石原慎太郎都知事とは大違いです。
 革新都政は、都主催の憲法行事として「憲法記念・地方自治を守る集い」(1968年5月2日)を開催。「東京に憲法を実現するということは、何よりもまず東京に平和を実現するということ」(美濃部都知事)と都民に呼びかけました。
 また、都市づくりへの都民参加では、「青空と広場の構想」(1971年)で都市計画への市民の参加を打ちだし、「都民参加による都市改造運動」を中心課題としてすえたのです。防災を名目に住環境破壊、住民追い出しの都市計画道路・特定整備路線を強権的におしつける現都政は、この革新都政の姿勢に真摯に学ぶことが必要です。

国の支配からの脱却
 革新都政時代も、いまも、都民の苦しみの根源は自民党が支配する国による悪政推進にあります。これに抗して切実な都民要求を実現するには、国の妨害をはねのけ、東京都が自ら国の悪政から都民を守る防波堤の役割を果たすことが不可欠です。
 その点でも革新都政は、「佐藤(注:当時首相)さんの自民党政治をストップさせる以外に、都民の幸せはない」(美濃部都知事)として、“ストップ・ザ・サトウ”を掲げてたたかい、都民運動と連携することで認可保育所の増設や老人医療費無料化、公害対策をはじめ、米軍基地返還、区長公選制などをつぎつぎと実現したのです。
 また、国の執拗な干渉に抗して財政自主権や大企業への適正な課税などの自主財源確保でも前進をかちとりました。


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