~連載(3)~ 考証 革新都政12年
2014年11月15日
革新都政を生みだした力(2)
中村錦之助、勝新太郎、高峰秀子 ……
革新都政を実現したもう一つの力。それは、広範な都民の共同、統一戦線の力です。
革新都政実現の母体となった「明るい革新都政をつくる会」は、共産党、社会党を軸に、総評、東京地評などの労働組合、新婦人の会、婦人会議、全商連など494の団体、大内兵衛、中野好夫、志賀直哉、有吉佐和子などの学者・文化人や弁護士など各界・各分野の著名人1831人によって構成されるとともに、各区市町村や職場でも「つくる会」が結成され、まさに、都民あげての運動がくり広げられたのです。
冒頭の、当時の映画界を代表するトップスター3人は、呼びかけに応えて「つくる会」に結集したもので、この革新の統一戦線がはばひろい人々によって形成され、支持されていたことを示すものです。
対等・平等の統一戦線
この「つくる会」が結成されたのは、都知事選挙告示のわずか4日前のことでした。しかし、結果は当初の自民党候補有利の予想をくつがえして、美濃部亮吉候補が44・5%(200万票余)を獲得。佐藤栄作首相の肝いりで立候補した松下正寿候補に14万票の大差をつけて当選。日本の首都に革新の都政が実現することになったのです。
この勝利の背景には、60年安保闘争を始め、ベトナム反戦闘争などの全国レベルでの共同と統一戦線の経験、1946年におこなわれた第一回統一地方選挙での、共産党、社会党をはじめ労農団体が結成した「民主団体共同闘争協議会」(民協)を母体にした長野県知事選挙での革新統一候補の勝利にはじまり、1950年の蜷川虎夫京都革新府政の実現など全国での革新自治体の実現と実践の経験がありました。
また、このたたかいは、関係者のねばり強いとりくみで、60年安保闘争での弱点(共産党のオブザーバー参加など)を克服し、(1)一致点での団結、(2)対等・平等の立場での共闘、(3)自主性の尊重、(4)妨害勢力の排除‐を実現したもので、その後の革新共同の指標となる教訓を築いたという点でも歴史的な闘争となったのです。
伏魔殿都政への怒り
同時に、東京における統一戦線の構築には、都民の政治参加の経験もおおきく寄与しています。それは、その前の都知事選挙での東自民党陣営によるニセ証紙、選挙はがきの横流し、外郭団体を使っての買収などの選挙違反事件、現職都議会議長が逮捕された贈収賄事件、オリンピック道路汚職事件、さらには、15名の都議の逮捕者をだした都議会議長選挙をめぐる買収事件など、腐敗と汚職にまみれた自民党都政に対する都民の決起に見ることができます。その一つが、共産・社会・民社・公明、東京地評、東京新産別、東京同盟など9団体による「都政刷新都議会解散リコール統一推進本部」(1965年5月結成)による、都政史上はじめてとなるリコール運動のとりくみでした。
その結果、都議会が解散に追いこまれ、自民党が31議席を失い、三分の一の少数党に転落。一方、きたる革新都政の与党となる共産党と社会党は、34議席から54議席へと前進することによって、革新都政実現の地歩が固められることとなったのです。(卯月はじめ)