いまからほぼ半世紀前の1967年4月15日。
“日本のあたらしい夜明け”となる革新統一の東京都知事が誕生しました。
初登庁にあたって美濃部亮吉知事は、「みなさんが知事に当選したのであって、わたくしは、1千万都民の分身に過ぎない」と挨拶。この思いは、革新都政実現のために立ち上がった都民に共通する思いでもありました。
革新京都府政(1950年~1978年)につづく、首都における革新自治体の誕生は、全国に燎原の火のごとくひろがりました。1975五年のいっせい地方選挙後には、東京、京都、大阪など9都府県、保谷、日野、羽曳野など99市、品川、中野など4特別区、93町村、合計205自治体に革新自治体がひろがり、革新自治体のもとにくらす住民は、総人口の43%、4682万人にまで達したのです。
この結果は、朝鮮戦争を契機に復活をはたした財界を応援団とした自民党政権による反動的支配が、あたらしい貧困の増大、“緩慢なる殺人”と呼ばれた公害の発生、大都市における住宅や保育所などの不足、腐敗の横行など破たんに直面していることを示すとともに、革新統一戦線の力こそが、政治の革新と住民が主人公の自治体の実現の原動力であることを力強く示したものでした。
その後、革新自治体のひろがりと施策の前進に脅威をいだいた自民党政権によって革新自治体つぶし=TOKYO作戦(注)が展開されることとなり、1979年に革新都政は幕を閉じることとなりましたが、その12年は、いくつかの弱点をもちながらも、憲法がくらしのすみずみにゆきとどく、住民が主人公の地方政治が、首都・東京において実現したことを明らかにしています。
今日、都政は、石原都政による多国籍企業・大企業奉仕、新自由主義の都政運営によって、革新都政が築きあげた施策のおおくが後退させられ、「都政が見えない」といわれるように都民にとっての都政不在が現実のものとなっています。
私たちの先輩、先達がさまざまな困難を乗りこえて実現させた革新都政。それは、都政の転換を願い、住民が主人公となる都政をめざす、今日の、私たちのたたかいに、すすむべき道筋を示し、おおくのことを教示してくれるのではないでしょうか。
本稿は、革新都政実現の力、その先駆性、今日に生かすべきとりくみについて、連載で考えてみたいと思います。
(注)TOKYO作戦=東京都、大阪府、京都府、横浜市、沖縄県の頭文字をとったもので、田中角栄内閣当時に、自治省の応援をうけて、自民党がすすめた革新自治体つぶしの作戦。