関東大震災から90年 東京は安全な都市に成長したのか(1)
2013年8月15日

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 90年前の9月1日、午前11時58分。東京市内にあった中央気象台と東京大学地震学教室の地震計の針が突然、左右に振れはじめました。
 死者・行方不明者10万5千人(東京7万人)余りという被害がもたらされた関東大震災のはじまりでした。最初、緩やかであった地震計の針の揺れは、数秒後には大きくなり、その後、すべての針がふきとばされ、破壊されるという激しいものに代わりました。
 その揺れは、地上に立っていることはできず、家屋がつぎつぎと倒壊させられていくほどの激震でした。東京(当時東京府)では、全壊家屋(非焼失)が1万1842棟、半壊家屋(同)1万7231棟に及び、焼失家屋もあわせると20万棟を超える建物が甚大な被害を受けることになりました。その多くが武蔵野台地と低地の境と隅田川周辺、埋立地などの低地に集中しています。
 この地震=大正関東地震の震源は、東京から約100キロ離れた相模湾沖の相模トラフ(トラフ=浅い海溝)で発生したもので、震源に近い神奈川県、千葉県房総半島などではより激しく揺れ、津波被害が発生し、火災を除いた家屋倒壊は神奈川県では東京の四倍、県下の全家屋の36%におよんだといわれています。なかでも、横浜市内は家屋の6割余が全壊し、壊滅状態となりました。

死亡原因の9割は火災

 一方、人的被害をもたらしたものは火災でした。地震後発生した火災で、東京市域面積(当時)の44%の地域が焼け野原となり、避難場所とされた墨田区の被服廠跡地では3万8千人が犠牲になりました。
 火災被害がこれほど広がった原因は、地震がお昼時に発生したため、各家庭や飲食店でかまどや七輪などで火を盛んに使っていたこと、その火が倒壊した家屋から燃えひろがったこと、当時の下町地域には火災の原因となる油や薬品が置かれていた町工場や学校が混在していたために延焼を強める結果になったこと、当時、台風が接近しており風が強く吹いていたことなどが推定されています。

生かされなかった復興計画

 灰燼と化した首都圏と東京。その復興はただちにはじまりました。被災翌日の9月2日には、内務大臣に就任した後藤新平が、東京市長時代に策定していた計画をベースにした「帝都復興計画案略図」を発表。さらに、被災一週間後には、政府による復興計画案が策定され、その後、10月中旬には、新たに設置された帝都復興院による二つの計画案が発表されています。
 一方、東京市は、独自に「帝都復興計画要旨」と「帝都復興計画東京市案」を作成、政府に提出しています。 これらの計画は、被災を奇貨として、懸案となっていた都市改造をすすめようという意図を背景に、トップダウンで策定されたものですが、同時に、防災の視点からは、延焼を遮断する鉄道や道路とあわせて大規模公園をはじめ公園道路・公園街路兼防火帯の設置、運河の新設・改修など、積極的に緑地や水路を活用する計画となっており、くわえて、東京市案では、人口を分散させるための地区中心を、郊外に設定するなど、注目されます。
 残念なことに、こうした計画は実行に移されることなく、今日に見られる無秩序な巨大都市が残されることになりました。




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